一昨日の金曜日は先生の送別会だった。かなり久しぶりに会った同級生もいて、とても懐かしく、そして楽しかった (笑)。
小学校の集まりだったのだけど、自分が30代なのが、なかなか信じられない気がした(笑)。30代もあっという間だろうなー(笑)。
そんな今の気分にあったブログがあったので貼っときます(-.-)y-~
内田樹氏ブログより
http://blog.tatsuru.com/
10.03.20 卒業生へのことば
卒業式、謝恩会が終わる これでこの大学の卒業イベントにかかわるのも、あと残す ところ一回だけである そう思うと、20回も出ている「いつもながらのイベント も何かしら「かけがえのないもの」に思えてくる その意味では、一生に一度だけしかこれを経験しない卒業 生たちの感懐に近いものがある 謝恩会の「締めの挨拶」を学生から頼まれたので、ひとこ とご挨拶をする 教育のアウトカムは卒業時点で考量されるものではな く、卒業生ひとりひとりが卒業後に過ごす時間のなかで形 成してゆくものである」と申し上げる 自分がそこで何を学んだかは、卒業してから長い時間が経 たないとわからない ひとによっては数十年経ってはじめて受けた教育の意味が わかるということが起きる それは、卒業時点で眼に見える知識や技術や資格や免状を 持つことよりも、ずっと教育的には意義のあることだと思 う 私はそれを「卒後教育」と呼んでいる 卒後教育」の主体は卒業生たち自身である ラカンの「分析主体」analysant をまねて言えば「教育主 体」éduquant は卒業したひとりひとりである 私たち教師はその活動については、間接的な支援をするこ としかできない 私たちにできるわずかな支援のひとつは「母港」としてそ こに「ある」ということである 学校はあまり変化しない方がよい これは30年余教師をしてきた私の経験的実感である 学校というのはそれがある場所も、建物も、教育プログラ ムも、校歌も、制服も、どうでもいいような校則も、でき るだけ変えないほうがいい 学校制度には惰性がある」ということを私に教えてくれ たのは諏訪哲二先生であるが、それは単に事実としてそう であるということにとどまらず、そうあることによって機 能している部分があるということである。そのことに、諏 訪先生からその言葉を聴いたときには気づかなかった 今は少しわかる それは「変わらない学校」が定点としてあることによっ て、卒業生たちは、自分が「そこ」からどれくらい離れた ところまで来たのか、「そこ」にどれくらい深く繋がって いるのかを計測することができるからである 教育のアウトカムを考量する」と上に書いたけれど、そ れができるためには、「定点」が計測の基点として存在し なければならない 自分の場所を知るためには、定点が存在しなければならな い 学校の、あるいは教師の重要な社会的機能は「定点」とし て、卒業生たちのために、「そこにいる」ことである 先週、ある雑誌のインタビュー写真のために図書館本館に 入ったとき、三階のギャラリーにゼミの卒業生がいた どうして大学に来たのか訊いたら、仕事のことで迷ってい たのだが、ふと岡田山の自分の大好きなあの場所に来れ ば、何か自分にとって正しい判断が何かわかるような気が して、図書館本館のギャラリーまで来たのだと教えてくれ た そこに戻ると、自分にとって何が正しいのかがわかる場 所。自分はこれからどういうふうに生きようとしていたの かがはっきり思い出せる場所。そのような場所であること が学校の責務だと私は思っている そのような場所をもてたことが卒業生諸君にとっては大学 に通ったことのおそらく最大の成果である ご卒業おめでとう 。
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